【知床半島における人喰い事件】 羅臼町史(昭和45年刊)より

羅臼町史には船長、水夫、青年などの実名が記されておりますがここでは船長、水夫、青年と記しました


遭難船長からの救助依頼
昭和19年2月4日午後4時30分頃、羅臼巡査部長派出所に老人が訪れ同所勤務の 山口光男巡査部長が出てみると、管内最北端の知円別で部落会長をしている 大国徳兵衛(64)で「知床の突端で難破した陸軍徴用船の船長から届けてくれと頼まれてきた 」と言って一通の書面を差し出した。


ルシャ川河口

私は陸軍徴用船第五清進丸の船長であるが、昨年12月4日、暁部隊の廻航命令により、 僚船5隻と根室港を出港し小樽へ向かって航行途中猛吹雪に遭遇して僚船との連絡不能となり、 さらに機関に故障を生じて漂流中に暗礁に乗り上げ、船体が真っ二つになったので、 乗組員はかろうじて上陸したが、飢餓と凍結のため5名は死亡し、本年11月19日まで 水夫の青年と共にペキンの鼻の昆布小屋で、番屋の神棚に小屋の持ち主が置き忘れてあった小型の マッチ箱1個により、番屋にある薪をたき、漂着した海藻やウニの殻などにより露命をつないでいた。 しかし1月19日、青年が海藻を拾いに行って崖から転落死亡したので、一人では心細くなり、結氷した 洋上をわたり漸くルシャ川のほとりの野坂初蔵方にたどり着いたが、栄養失調のため一歩も歩けないの で救助していただきたい。

〈以下船員の名前、年齢、出身地、が記載されていたが省略〉

直ちに標津警察署に電話報告し、羅臼村役場、漁業組合と協議して救助に向かうこととし、翌5日午前 6時、漁業組合の発動機船を仕立て村上村長、小倉漁業組合長、山口巡査部長の3人が流氷の間を縫って約7里離れたルシャに向かった。 野坂宅を訪れると船長は初蔵夫婦の手厚い看護を受けていたが、栄養失調でやせこけ歩行もできないほど疲労している状態であった。 これを抱きかかえるようにして羅臼へ引き返し、船長を羅臼市街の豆屋旅館に収容したのである。

船長の供述の矛盾
山口巡査部長は、旅館で船長の回復を待って、同人から事情徴収を行った。船長は1ヶ月半に亘る絶海での生活を詳細に話したが、 その中で述べた次の言質を山口巡査部長は聞き逃しはしなかった

@ 船体が大破して刻々と浸水してきたので、全員が裸になり、年長者から海に飛び込み陸に向かって泳いだ。自分は全員が陸にたどり着くのを見届けてから最後にふんどし 一つで陸に上がった。

A 陸には全員が上がったが、空腹と寒さのため次々と死んでいき、自分と水夫の青年だけが九死に一生を得て、片山梅太郎所有の昆布小屋に到着し、床板をはがし 神棚にあったマッチでたき火をし、それからは海草の漂着したものや、ウニの殻、それに流氷に挟まれたトッカリを 殺したりして食べ、1月19日青年が死ぬまで生活をしていた。

以上の供述から山口巡査部長は、
@ 海に飛び込んだのであれば腕時計は塩分のため動かなくなるはずであるのに、 船長の時計はカチカチと秒を刻んでいること。

A ふんどし一つの裸で飛び込んだはずの船長が、自分の記名のある防寒帽、軍衣、袴、襦袢、袴下、を使用していること。


B 遭難場所付近には通常12月から1月にかけてはトッカリが漂流してこないこと。


C 季節的に海が流氷で覆われるので海草は漂流しないこと。
等の矛盾があることを感じたのである。


船長は3週間に亘って収容されていたが、その間も山口巡査部長は、時々旅館を訪れて船長の行動を内偵したところ、 旅館のおかみから、
@ うちのばぁさんが遭難した船員の名前を書いて 仏壇にまつってあるが、船長さんは体が良くなっても仏さんをお参りしない。


A 船長さんは夜になると毎晩のようにうなされる。 ある時は、夜中に「許してくれ」と叫んだのを聞いたことがある、 との聞き込みをした。


以上のことを総合して、船長が青年を殺すかあるいは死んだ船員の人肉を食って生き延びていたのではないか、との疑いがもたれるにいたったのである。


決死の実地検分
山口巡査部長は以上の矛盾点を署長に報告し、其の指揮を仰いで現地を検分することとした。 2月16日午前5時、地元消防団員3名の応援を受け、開びゃく以来冬期間踏破したことのない知床半島に検分のための決死行をいどんだのである。厳寒の2月中旬とて見渡す限り流氷が半島と国後島間の根室海峡を埋め尽くし、其の表面を横殴りに吹き付けるオホ−ツク嵐は身を切るように冷たい。 その中を2泊の野営をして漸く現地に到着した。

〈中略〉
船長らが生活したという片山梅太郎所有の番屋をよく調べたところ、屋内にしいてあるむしろに多数の血痕が付着しているのが確認した。 さらに岩山を迂回して北方の場所で乗組員の死体を発見したので 近くの小屋を壊してダビに付し、期待をかけたほどの収穫もなく19日に帰途についたのである。
この間、標津警察署から所属部隊である根室の暁第6193部隊に、船長を保護中であることが通報され、同部隊 伊藤隊の陸軍曹長佐藤常夫以下7名が羅臼に到着したので、2月21日引き渡しが終わり、村民多数の見送りを受けて船長は退村した。



ぺキンの鼻

リンゴ箱内の人骨
かくて3ヶ月が過ぎ、知床の雪は消え流氷も去って再び漁期となった。5月14日ウニ採取のためペキンの鼻の番屋に向かうべく片山梅太郎が羅臼港に立ち寄り、食料、水などを補給中であることを聞いた 山口巡査部長は、同人に対して船長の遭難の模様を説明し「自分の考えでは、船長があんたの番屋で船員を殺して食っていたとにらんでいる。もし番屋付近に異常があったらすぐ知らせて欲しい」 と依頼しておいたところ、はたして同日午後5時40分頃、片山が現地から引き返し「リンゴ箱の中に人の骨を入れたものがある」と知らせてきたのである。予感的中とばかり山口巡査部長は、直ちに署長に 報告し単独で検証を行うことを進言した。


現場は2月に検分したときと違って雪が消え、検証がしやすくなっていた。まず番屋に入ってみると、片隅の床板・壁板・むしろ等に血痕が認められ、さらにその飛沫が付着している。 その中から人血とおぼしき血の固まりを採取した。また番屋から15間位離れた波打ち際にロ−プで十文字に結んだ古いリンゴ箱が漂着しており、その中には頭部・頸部・脊髄骨・肋骨・手足などの骨や、 はぎ取られた人間の表皮が詰め込まれている。頭蓋骨は鈍器のようなものでうち砕かれ、脳膜は取られてからとなっている。手足の表皮はあたかもバナナの如く手足首までむかれ、手掌・指・足掌等は そのまま付着しているが、皮をむかれた部分の骨はナイフのようなもので肉を切り取った後があり、手の骨は焼いて肉を食ったものか焼け跡が残っており、その他の骨も肉を削り取った後がある。しかも各部の骨は 衣服の布で丁寧に包んで箱の中に納めてあった。
これらの骨及び頭髪の状況から、この人骨は年若き男子のものであることはほぼ確定的で、人為的であるところから、船長が水 夫の青年を殺害し、其の人肉を食して生き延びていたが、それも食い尽くし他に食料がないため、 その骨を箱に詰めて海中に投じ犯跡をかくしてから、前記野坂初蔵方へ救助を求めてたどり着いたものであると推察された。


死体破損・死体遺棄罪で懲役1年
取り調べにたいして船長は、殺害した事実については否認し、餓死した青年の肉を食して命をつないでいたことを認めたが、血液鑑定も生前のものか死後のものか判定困難とのことで、殺害の証拠とはならず、 船長の供述のまま6月10日送致した。同人の供述によると、青年は1月始めに栄養失調で死亡した。このころ番屋にあった食料を食い尽くし、他に求めるすべもない船長は、迫りくる空腹に自らも餓死を覚悟しなければならないという 窮地に追い込まれた。このような場合の生への執着はますます増大する。ついに船長は台所にあった出刃包丁で青年を料理して満腹感を味わった。船長は完全に餓鬼となった。 かくして1ヶ月間露命をつないだが、それも残り少なくなったとき、食べ残りの骨を丁寧に布きれに包み、 リンゴ箱に収めたあと岩陰にロ−プでしばりつけ、取っておいた肉を腹に詰め、身支度をして海岸を南下したのである。



現在の誠諦寺

羅臼で船長が療養中、羅臼市街の誠諦寺住職西井誠誘がたびたび見舞いをしたが、その際船長は、青年の遺髪と爪を差し出して供養を依頼し、羅臼を去るとき持ち帰ったといい、また、この取り調べに当たった検事に対して、 「臓物を食べたとき最も元気がついた」と申し述べている。
かくて船長は同年7月30日釧路地方裁判所の公判において懲役1年の刑を言い渡され、控訴することなく服罪した。