日本とトルコの知られざる関係を教える授業です。
昭和60年(1985)3月19日の新聞(北海道新聞)を配布する。そして、見出しを読ませる。
説明 1985年イラン・イラク戦争の最中でした。長引く戦争にしびれをきらしたイラクの のサダム・フセインは、イランの総攻撃を準備し、どこの国の民間機でもイラン上空を飛行すれば攻撃すると通告しました。開始日は3月19日午後8時(日本時間20日午前2時)。イランのテヘランでは日本人が、 300人以上が脱出できないでいました。
発問 この時自衛隊機が救援にいったと思う人は○、行かなかったと思う人は×とノートに に書きなさい。
それぞれの人数の分布を確認する。『憲法上も無理だし、軍用機ではなおさら攻撃さける可能性があるのでそれは無理でした。』
発問 そこで外務省は、日本航空に救援を依頼しました。さて日本航空は救援に行った と思う人は○、行かなかったと思う人は×とノートに書きなさい。
それぞれの人数分布を確認する。『日本航空は危険なのでことわりました。』
発問 300人の日本人はその後どうなったか予想しなさい。
2,3人氏名して答えさせる。
説明 実はある国が飛行機をだしてくれたので日本人は脱出できました。
と言って次のように板書する。
板書 ○○○共和国
発問 日本人を救出したのは、○○○共和国でした。そこにはカタカナ3文字入ります。ノートに書きなさい。
「トルコ」
『そうです。トルコ航空がトルコのイスターンブールまで送ってくれました。』と言って、3月2 0日の新聞を配布する。
発問 ではなぜトルコが救援の飛行機を出したのですか。予想しなさい。
2,3人を指名して答えさせる
出てきた予想をほめる。答えは束ねないで次へいく。
『ヒントは次の切手にあります』と言ってトルコの切手を配布する。
説明 これはトルコの日本との友好を示す切手です。前に日本とトルコの女性が描かれています。
発問 その後ろに見えるものは何ですか?
「船」
説明 そうです。この船はエルトゥールル号です。今を去ること112年前の1890年 (明治23年)オスマン帝国(トルコ共和国の前身)の使節は日本に来て明治天皇にも会いました。 帰る途中台風のため和歌 山県の串本沖で沈没してしまいました。600人以上が死亡しましたが、日本人の決死の救助作業で 69人を救出しました。その人たちは、手厚い看護を受け日本の船で無事トルコに帰国しました。こ のことはトルコの教科書にも載っていることなのです。トルコのテヘラン日本人救出は、日本のエルトゥール ル号救助を一つの背景にしていたのです。
付記 トルコが親日的なのは、日露戦争で仇敵ロシアに勝利したことも関係がある。 日本が勝利した時、子どもに「トーゴー」、「ノギ」、「ジャポンヤ」という 名前をつけたトルコ人も多かった。山内昌之、『世界の歴史20 近代イスラームの挑戦』、 中央公論社、404ページ。
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