この記事は「電撃NINTENDO64(現・電撃ゲームキューブ)」1997年7月号に掲載されたものです。


OGA PRESENTS
意味などないのだ
There-is-no-reason-to-be!
欄外・注釈

『アンダーグラウンド』村上春樹

村上春樹が地下鉄サリン事件の多数の被害者にインタビューしたノンフィクション。講談社刊。

『アンドロメディア』渡辺浩弐

渡辺浩弐初の長編書き下ろし小説。すでにゲーム化、ドラマ化も決定している。幻冬社刊。

PS『パラッパラッパー』Sony Computer Entertainment

ラップのゲーム…としか言葉では説明できないキュートでポップな作品。

発端

 僕が初めて渡辺浩弐に会ったのは約10年前、彼がまだ学生で「GTV」というゲーム情報ビデオを作りはじめていたころだった。 僕は売れないお笑い芸人で(恥かしい過去です)のちにGTVの構成作家になるのだが、最初はちょっとしたゲーム仲間、という感じだった。 彼の事務所には、ようやく職業として成立するかしないかの貧乏ゲーマーたちがブラブラしていて、 僕はときどき遊びにいって『ファミスタ』をやったりしていた。まだ高橋名人がスターだった時代である。
 やがて、ナムコが主催する「ファミスタ選手権」(2万人が参加したほどんど世界初の大規模なゲーム大会)が開かれることになり、 GTV代表として僕が出ることになった。で、その当日。会場に行ってみると「インド人の衣装」が置いてある。 渡辺浩弐が僕に言った。「今日から君はインドマンとなる。これはGTV代表としての最終決定だ」 こうして僕の人生の一部は「カレーを食べながらゲームをする、下品で最悪でチ●ポをすぐ出す狂気のゲーマー」に支配されることになった。 その後インドマンは、あまりの変態ぶりがたたり自己崩壊を起こして消えていったが、 僕と渡辺浩弐の関係はこうしていまでも続いている。

渡辺浩弐が渡辺浩弐になった理由

 渡辺浩弐は学生時代に遊びほうけることを目的に旅行雑誌のライターをやっていたらしい。 ハワイやロスで、日がなビールと日光浴を楽しみながら、適当に写真を撮って、 たま〜にレポートを書くという堕落した、でもスゲー楽しそうな生活をおくっていたそうだ。 この生活は東南アジア、南米へと続き帰国時には「すっかり頭がボーッとしていた」という。
 帰国後一念発起…したかどうかは知らないが広告の仕事をはじめた彼は、やがてビデオソフトの仕事に流れていく。 当時、マリオが大ヒットしてファミコンがブームとなっていたため、 彼はビデオソフトメーカーにゲーム攻略ビデオの企画書を出したり、シナリオを書いたりしていたそうだ。 その流れで「高橋名人の主演映画」(うわ〜っ!)の企画書を出し、なんとそれが通ってしまう(うわうわうわ)。 そして、その映画のシナリオを書いたことが、結果この世界に入る大きなキッカケになったようだ (本人は1962年生まれで、その年に世界初のコンピュータゲームが生まれていることから、 ある種の天啓をうけた…というたわごとをず〜っと言い続けているが、無視!)。
 その後、GTV編集部(ゲームジャンキーのたまり場)を作った彼は、やがてゲーム業界にどんどん入り込む。 そして現在そこはゲームソフトを開発するとともに、作家・渡辺浩弐の活動基地になっている。 ってことは、総括するとぜんぶ高橋名人のおかげってことか(笑)?


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