99年現地本部ニュース bS bU bW bX



’99年現地本部ニュース   4          from 矢臼別川瀬牧場

演習場のどまん中から

1999年9月15日 

 

兵、またもや押しかけ『慰問

15日、米海兵隊が今期2回目の「ボランティア」を強行しました。ひとつの班は、いこいの森の遊具の防腐剤ぬり。7日の作業のつづきでした。一方の班は、老健施設の「慰問」。歌ったりクッキーを配ったりしました。「慰問の通知を受けたのはきのう」と施設側では説明しています。

  自然豊かな場所に、どうして演習場があるの?
札幌のキリスト者8人、支援に

14日未明、札幌のキリスト者平和の会のメンバーが現地本部にかけつけてくれました。山本光一牧師以下6人。11日から入っていた先発隊と合流。8人の支援部隊です。米軍の発射弾数のカウントや周辺の農家への「本部ニュース」配布などをがんばってくれました。15日夕、帰っていきましたが、メンバーのひとりが「この自然豊かな場所にどうして演習場があるのか」「自然をはぐくむことと人を殺す演習」この矛盾がここへくるきっかけです・・・とメモを残していました。

 

<<<<<<<ある日の現地本部日誌>>>>>>>

小泉参院議員迎え盛り上がった交流会 〜〜 9月11日(土)〜〜

 夕方5時から、現地本部のD型ハウス(通称 矢臼別ホテル)で、9・12全道集会前夜のつどいを開催。北海道民医連の若い医療労働者25人をはじめ、札幌・石狩・十勝のほか本州の人たち53人が参加した。矢臼別は初めてという人たちが多く、川瀬さんの生きざまが語られた。この夜のメインは日本共産党参院議員・小泉親司さんの講演。日本をアメリカに従属させ「戦争する国」に向かわせようとしている「自自公」連合のあくどい国会運営の様子とそれにたち向かう平和勢力のうごきが報告された。7時からは夕食交流。手づくり料理を楽しみながら地元の仕事づくりをすすめている女性。外国の平和運動と結びついている人たちなど、スピーチがつづき、夕食後も語り合う人々の姿があった。夜は射撃なし。

施設局に申し入れ 〜〜9月12日(日)〜〜

昨夜来の雨が降りつづくなか、7時起床。朝食などをすませて9時、バスで正面ゲートに到着。防衛施設局斉藤広報官と交渉。米軍演習中止、とくに夜間訓練、核訓練の中止と米兵外出の禁止などを申し入れ。横断幕を広げてシュプレヒコール。「米海兵隊は演習をやめて帰れ」「防衛施設局は住民を守れ」等々。元気がいい。移動して高台から廠舎をながめていると、砲声がとどろいた。距離があるはずなのに着弾音が大きい。はじめて砲声を聞いたという若い女性はショックをうけた様子である。10時20分「いこいの森」に到着。空はすっかり晴れた。参加者一同で 本部ニュース号外を1000枚、別海市街に配布。9・12全道集会会場に向かう。

史上最高!!489発の猛射 〜〜9月13日(月)〜〜

8時30分、1発目の砲声。配置についていたカウント係が3人、記録を開始。着弾音まで46秒。5分後にまた1発。着弾音まで42秒。32分、2連発の砲声。39分2連射。40分、今度は8連射。その後も3連射、6連射がつづき、同数の着弾音がはね返ってきて空気をつん裂く。10時48分、52分は9連射、13連射と続き、11時42分、14連射。2時50分からはこの日最高の18連射があった。155ミリ砲の能力は1分間に3発。公開訓練の時は着弾地まで11キロ、15キロの2地点に3門ずつ計6門、というから、その6門を全開、能力いっぱいの連射をしたものであろう。とにかくすさまじい。この日は、日中434発、夜間55発(うち照明弾8発)合計489発という猛射であった。この3年間での最高記録である。


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演習場のどまん中から

1999年9月19日 

 

これが沖縄の訓練と「同質・同量」か

夜間訓練強化し実弾射撃終る

18日午後2時29分、ダンダーンと2連発。その後に「終了」の知らせがありました。9月8日開始以来、15日を除く連続10日間の海兵隊による砲撃訓練の終了です。

住民の願い拒否 夜間訓練強化

米軍は発射弾数の公表を拒否しています。私たちは演習場のどまん中、川瀬牧場で砲声をかぞえました。この10日間で1839発でした。これは3年間で最も少ない数です。ところが、夜間の砲声は帰って増加。339発と過去最高をかぞえました。「夜間訓練をやめて。せめて縮小を。」という住民や自治体の切実な願いをふみにじり、米軍は沖縄ではできない夜間訓練をこの矢臼別で補い、強化しているのです。司令官D・A・ケリー中佐は記者会見で、次のように述べています。「米軍の戦闘計画は夜間が多く、任務達成のため訓練は必要。」

18連発など猛訓練 「沖縄でできない訓練が可能に」

13日、489発の砲声をカウンターがはじきだしました。1日の弾数としては過去最多です。9連射、12連射などがくり返され、18連射も記録しました。公開訓練のときは、着弾地から11キロ、15キロの2地点に3門ずつの砲があったそうですから、1分間に3発という砲の能力を全開にして撃ったものと思われます。NHK沖縄テレビで第12海兵連隊司令官トーマス・ケリー大佐は、「矢臼別演習場は、噴進弾を使用し、最大射程で訓練することができた」「沖縄では実施できなかった様々な訓練が可能になった」などと述べています。(3/12放送)住民から見えない日本一広い演習場で、米軍は思う存分の訓練をしていることでしょう。

滞在日数33日 米兵は何をしている?

8月29日にやってきた米兵が帰るのは9月30日。33日間滞在しています。訓練うけいれを決定する前、政府も町長も「どんなに長くても20日を超えない」と明言してしました。10数日ものゆとりの期間、米兵は何をしているのでしょう。NBC(核・生物・化学兵器)訓練をしていることは最近分かりました。はっきり言えるのは、「沖縄での訓練と同質・同量」「沖縄の痛みを分かち合う」という宣伝文句はうそごまかしであったということです。

ほんと!?半日足らずで不発弾処理

砲撃訓練終了を受けて19日、不発弾の処理作業が実施されました。現地本部でその爆発音をカウントしたところ、9時から10時8分までに6この爆発音がありました。11時30分、防衛施設局に問い合わせたところ、「終了しました」とのこと。わずか数時間、しかも6こ程度で終了するものなのか疑問が残りました。ちなみに現地本部のカウントでは(複数の人たちでやっているのですが)発射音があって、着弾の音がとどかなかったのは30こでした。3年間、砲声を聞いている川瀬氾二さんは「昨年は18この不発弾処理の音を聞いた。着弾音のなかった個数と一致していた」と語っています。

米兵「外出」エスカレートか

司令官のケリー中佐は記者会見で「家庭訪問」2回、「ボランティア」5回、訓練終了後「休息」も許可すると言明しています。すでに別海町で2回にわたって「ボランティア」が強行され、「尾岱沼のキャンプ地に米兵らしい人たち」という未確認情報も入っています。米軍が、密度の濃い訓練を短期間で消化しましたから、その「休息」が行われるのは当然で、昨年以上の規模と内容(多方面化、より自由化)が予想されます。現地本部では、釧根連絡会などと密接に連携しながら監視を強めていきます。

カウントした砲声

 日 天 気  8:30〜16:30 19:00〜22:00     計    
 8日 曇・晴      70発      24発      94発
 9日  晴      85      60     145
10日 快 晴     207       2     209
11日 曇・雨     144       0     144
12日 雨・晴     148      99     247
13日  晴     434      55     489
14日  晴      36       0      36
15日  晴 ------------ ------------ -------------
16日  晴      71      48     119 
17日  晴     207      51     258 
18日  晴      98 ------------      98
  計    1500発     339発    1839発

総弾数(砲声)に対する夜間弾数の比率

年  度 総 弾 数 夜間弾数 夜間比率
99年度 1,839発   339発 18.4%
98年度 2,650発   326発 12.3%
97年度 3,100発   242発  7.8%

 


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演習場のどまん中から

1999年9月25日 

外出・ボンティア 画どおり実施 

 6日の記者会見で司令官のケリー中佐が述べた「ボランティア」5回、家庭訪問2階、訓練ごの「外出」などの計画は全て実施されました。前回に比べ、回数も行動範囲も参加人数も拡大、その半面、「同行」から「巡視」に転じた施設局職員はその数も減っていることが歴然としていました。
  「外出」は、ほぼ自由化されたといえそうです。

 海兵隊員16人 別海神社でボランティア

 21日、ナイセック大尉(牧師)ら16人が別海神社を訪れ、「ボランティア」をしました。
 同神社を訪問するのは昨年に続いて2度目。草刈りや枯れ木の撤去、お水舎や舞台の屋根塗りなどのあと神社総代会による昼食会が行われたと報道されています。〈釧路新聞による〉   

 家庭訪問も実施

 2回計画した「家庭訪問」も実施したとのことですが、そのくわしい内容は明らかにしませんでした。 

 道東ツアーに80人

 23日には阿寒バス2台で「外出」しました。施設局によれば80人の海兵隊員が参加しました。
 「道東ツアー」と称するこの外出は、朝8時すぎ演習場を出発、摩周湖、美幌峠などを経て午後1時40分網走市内に入り、網走監獄博物館などに立ち寄りました。
 施設局によると、演習場に帰ったのは夕方6時とのことです。 

釧路へ大挙130
盛り場に12時間も 

 釧路市への大量「外出」は24日、実施されました。
 阿寒バス3台に分乗した海兵隊員130人が、釧路プリンスホテル裏に到着したのは午後0時50分ごろ。いったんホテルのロビィに集まったのち、2人、5人などのグループに分かれて、ゲームセンターで遊んだり、店に入って買い物したり、栄町、末広町かいわいはどこでも米兵が目立ちました。することもなく街頭ですわりこんでいる姿もありました。その米兵たちに宣伝チラシを配るホステス、店を改造したり、英語の看板やメニューを用意する酒場など、昨年には見られなかった光景が目に映りました。
 夜になると、陽気にはしゃぐ米兵の姿がふえましたが、昨年にくらべ落着いている様子でした。 

 ケリー中佐、陣頭指揮

 帰りのバスがプリンスホテルを出発したのは午後9時20分。予定した兵士が集まらないのか、多少もたついた感じ。司令官のケリー中佐が直接指揮をとっている様子でした。飲みすぎたのか、バスの窓から吐くわかものが2、3人みえました。

乗りおくれ?深夜の町に酔った海兵隊員!! 

 最終便のバス2台が帰途についたのは深夜0時10分すぎ。
 ところがそのあと0時30分、居酒屋などの入った雑居ビル入口で、新聞記者が6人の海兵隊と出会っています。そのうち3人はかなり酔払っているようす。2人は監視役のようなふん囲気。施設局職員は2人いました。記者の質問に身分は否定しましたが、服装、昼に出会った顔もいたのでまちがいないとのこと。
 酔っぱらった3人をふくむ4人は、タクシーに乗って去りました。他の2人はあたふたと反対側のビルの入口に回って行ったと報告されています。

午前1時 まだ居た!? 

 さらにそのあと午前1時ごろ、盛り場のセイコマート前で4人の海兵隊員と出会っています。写真をとってくれというのでとってやって、「君ら海兵隊だろう」と聞くと「そうだ、海兵隊員だ」と誇らしげに言ったとのこと。
 なお、この事実を施設局に問い合わせたところ、斉藤利宣広報官は、釧路に宿泊した者もいることは認めましたが、以上のようなことは報告を受けていないとしています。



     メ モ・・・・・・外交政策部・G5

 1995年、沖縄で起きた米兵による少女暴行事件は、米軍基地撤去の運動をいっきに燃え立たせました。日米安保条約の根幹を揺さぶるような事態にたいし、米軍は97年、基地司令部内に「外交政策部(G5)」という新しい組織を設けました。
 その任務は、基地をかかえる市町村との関係改善と若い海兵隊員の教育の二つ。母国から初めて出てくる若者たちに、日本における常識をみっちり教えこんだりするそうです。
 沖縄に於ける基地確保のための苦肉の策ですが、「外出」におけるケリー司令官の陣頭指揮などもそのひとつのあらわれと言えるかもしれません。また「ボランティア」など地域住民との親睦を図るのも同様の主旨によるものです。



 大幅に増えた「外出」 基地維持をねらう宣撫工作

場所 人数
9月 7日 老人ホーム 11人
いこいの森 19人
9月15日 老健施設 10人
いこいの森 14人
9月20日 釧路カトリック幼稚園 16人
9月21日 別海神社 16人
9月23日 道東ツアー(網走など) 80人
9月24日 釧路「見学」 130人
家庭訪問・・・14日と24日の2回(2軒)に計32人参加
     


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演習場のどまん中から

1999年9月27日 

米軍撤収始まる

 26日、米海兵隊の本隊第1陣80人が中標津空港から沖縄へ帰りました。 
 この日、町連絡会は空港の近くで待ちうけ、横断幕とプラカードで抗議の見送りをしました。7人が参加しました。
 バス3台、トラック2台を連らね、中型機1機を占有して飛び立つぜいたく。この経費が全て私たちの血税だと思えば腹が立ちます。
 第1陣のなかにけが人がいました。自衛隊の救急車から、車いすごとリフトでもち上げ、機内へ入れるのにずいぶん手間どっていました。それが終るとバス3台が機に横づけ、腹部からおろされたタラップを渡って乗りこみ、12時30分、出発しました。
 空港要員に聞くと、けが人は訓練後、フットボールをしていて足を骨折し、釧路市立総合病院で手術したということです。
 第2陣は27日、同様の方法で撤収、12時10分に飛び立ちました。28日には、12時半と14時、二派にわたって撤収、後発隊が帰るのは30日、12時半発となっています。
 砲や車両は26日午後からいっせいに運び出され、花咲港へ向かう車の列がつづきました。

 連絡会国際部がんばる

 米海兵隊矢臼別移転反対釧根連絡会(宮本洋昭代表)は、米兵130人が大挙して釧路市の盛り場へくりこんだ24日、市民がトラブルに巻きこまれないよう一晩中監視要員を街頭に送り出しました。 

米兵全員に パンフレット「人民の声」とどける

 同連絡会の国際部(三宅信一代表)は、米軍向けに作製したパンフを街頭に出かけようとするひとりひとりに手渡しました。
 パンフは「人民の声は神の声」というキング師の言葉を冠し、「あなたたちが矢臼別へ軍事演習にくるのはごめんだ。旅行者としてくるなら大歓迎だ」とよびかけたもの。演習場周辺の子どもたちの作文、平和憲法第9条、元海兵隊員アレン・ネルソンさんやドイツのギド・グリュンバルト博士のメッセージなどを載せたA5版8ページ、英文の小冊子です。メンバーが差し出すパンフのうけとりを拒否する兵士はほとんどなく、用意した分はなくなりました。

4年の兵役終えて早く故郷へ帰りたい

 英会話の達者な国際部のメンバーが街頭で、米兵に話しかけました。
 多くは19〜20歳のわかもので、米本土でいっていの訓練を経て沖縄へ派遣されたようです。故郷には母や妹がいる、訓練はきつい、早く兵役4年を終えて、故郷へ帰りたい、などと語っていたそうです。また、「外出」のとき、恥ずかしいことをするなときつく言われている、反対する市民がいて監視されていることも知っている、アレン・ネルソンの名は聞いているとか、次は王城寺原に行く、などと話す兵士もいたそうです。

 9・8、9・12申し入れに対する施設局の回答

 海兵隊移転反対別海町連絡会(森高哲夫代表)が、実弾訓練開始日(8日)と全道集会(12日)の当日、他の団体と共同で提出した申し入れ書に対する本庁からの回答がありました。
 防衛施設局は従来、文書回答をしないという態度をとり続けています。ここに紹介するのは、現地の斉藤利宣広報官から25日、口頭で伝達されたものの骨子です。

連絡会の申し入れ事項 防   衛   施   設   局   の   回   答
海兵隊の砲撃訓練は反対。すぐ中止せよ。 県道104号越え砲撃訓練を分散実施するにあたり、米軍基地の集中している沖縄の負担を全国民で担うという考えから5演習場の自治体の理解と協力をいただき実施していることをご理解願いたい。
夜間訓練反対の声を米軍に伝えたか。せめて夜間射撃だけでも止めるべきだ。 地元の声は米軍に伝えてある。夜間訓練は隊員の練度維持のために重要。自衛隊の実施している時間内で必要最小限の訓練を実施している。
NBC訓練は約束違反。即時中止せよ。 核攻撃を受けたことを想定し、防護服着用などの防御訓練であって、米国でも沖縄でも実施している通常の訓練。問題ない。
「外出」は住民にとって不安だ。外出を許すべきではない。 演習場外の行動については、住民の不安のないよう万全を期している。米軍は最高度の規律保持を約束している。
日米地位協定上、国内での移動、行動の自由が保障されていることは、日米両政府間で確認されている。 
ボランティアや家庭訪問は「宣撫工作」であり認めるべきでない。 米軍は地域の人々とのよい関係を築きたいと考えている。また米軍の姿を見てもらうチャンスと考えている。
ボランティア外出を自治体に強要するな。 当局が強要した事実はない。(適当な訪問先を問い合わせたことはある。)
私たちは直接米軍と交渉したい。 その申し出は米軍側に伝えてある。
施設局の対応が拒否的になった。住民の側に立つべきである。 当局は一貫して誠意を持って対応してきた。その方針は今後も変わらない。