4回目の移転演習と日出生台演習場の変貌について

大分県原水協 遠 入 健 夫


                      
 大分県のほぼ中央部に位置する標高600〜700メートルの日出生台演習場は、西日本最大の実弾砲撃演習場です。大分県冬季は30センチを越える積雪もまれではなく、気温も零下10度を越えることもあります。
 この演習場は戦後、占領軍であった米軍に接収され、朝鮮戦争当時の5年間、米韓両軍による激しい「実戦」訓練が行われ、周辺自治体と住民に多大な被害を与えました。湯布院町など周辺自治体が共同で纏めた「日出生台戦後補償史」には、「婦女子は全部危険のない森、宇佐方面に疎開させ、部落には男子のみという時期があった。」また「にわとり等見かけないことが数年あった。」等と記録されていることからも、当時の住民への被害の大きさがうかがわれます。
 接収解除後は、自衛隊の実弾射撃の演習場として、西日本の各自衛隊が年間300日にも及ぶ実弾射撃を行っています。演習場にされて100年、場内ではそれ以前から子牛生産の放牧が行われ、何の支障もなく続けられてきました。
 1997年、在沖縄米海兵隊の演習移転先にされてからのこの5年間、日出生台演習場は、米軍演習場として外観も機能も強化されました。演習場と県道の境界は強固なフエンスとコンクリートの杭と4本のワイヤロープで隔離され、演習場の入り口には鉄製門扉と遮断機、監視用の建物が設置され、住民を拒絶しています。そして演習場始まって以来初めて、海兵隊の滞在する期間(約1ヶ月間)放牧農民も全面立ち入り禁止となりました。自衛隊の「入場許可証」を持つ工事関係者も、この期間演習場内に入れず工事は中断されました。日出生台演習場が完全に米軍基地となっているのです。
 一方演習場内には、他の移転先演習場にも建築されていますが、300人収容、3階建ての米軍専用の宿舎、食堂、厨房が造られ、弾薬一時集積場、洗車・整備場、着弾監視装置、発射陣地整備、野外トイレなどなど米軍演習用の様々な施設が整備され、演習場の機能は一変させられました。その費用はこれまで32億円近くの達しています。
 日出生台では、本年2月1日から8日まで、4回目の移転演習が行われました。演習場内の諸施設が完備されていなかった1、2回目の演習では、場内の各所に着弾監視所らしきもの、アンテナを備えた気象観測用基地などが設置されていましたが、前回と今回は、場内には1ヶ所だけ着弾監視所ガあっただけで、8日間の実弾射撃中、榴弾砲の砲座の移動時以外、車両の移動もなく海兵隊の姿は見えなかった。演習場内は「演習中」のまま、3〜6時間以上1発の射撃もしない時間が続き、使用協定での終了時間間際の21時直前まで終了合図をしない日が続きました。大分県と湯布院、玖珠、九重三町は「155ミリ榴弾砲の射撃訓練のみとし、それ以外の訓練はいかなることがあっても実施せず訓練が拡大されることのないよう」と要求し、防衛施設局は「移転分散・実施される訓練は、・・沖縄県道104号線を越えて実施されてきた米海兵隊による155ミリ榴弾砲の実弾射撃である」と約束しています。
 しかし、監視行動に参加した人は一応に、射撃を行わない永い空白時間に何をしているのか、実弾射撃演習以外の訓練が行われているのではないか。との疑惑を感じています。この面からも、日出生台演習場が、米海兵隊の「分散移転」先ではなく、海兵隊に必要なあらゆる訓練が自由に行える演習場として固定化されて行くのではないかという地元住民の危惧が現実のものになっていることを実感します。
 更に、2000年11月に突然発表された、周辺住民に対する「補償移転」問題がいよいよ現実のものになっていることです。一方的に線引きし、145戸を対象に、希望者の土地建物を国が買い上げ、住民を立ち退かせると言うものです。老齢化と過疎に悩む演習場周辺の住民を再び米軍演習のために金の力で「追い立て」るものです。今年4月までに6世帯10人が日出生の地を離れようとしています。肩寄せあってお互い助け合い地域社会を維持してきた、その一角が破壊されようとしています。しかし、若手の農民たちは、米軍や自衛隊に依存しない自立した地域社会つくりをめざして、住民の憩いの場所つくりや、農事法人を設立して農業を守り、自らの生活を守るために立ち上がっています。
 今年の監視行動には、労働組合員や県内の平和民主団体から述べ80余人が参加し、200人を越える人たちが調査交流に現地を訪れました。地元の人からは、「何年たっても日出生台を忘れずに皆さんが来てくれることで勇気をもらい、頑張ろうという気持ちが強くなる」と、海兵隊の移転演習反対をとものたたかう決意を固めあいました。まもなく日出生台は一面の緑に覆われます。