沿 革

 序章 −開拓のあけぼの−

 この土地に人の足跡をはじめてつけたのは誰だったろう、いつ頃だったろう。詳しく知る由もないが、 武佐川付近・西竹の荒川流域・当幌地区の竪穴遺跡や発掘される土器などから、先住民族がきびしい大自 然に立ち向かって生きていたことが偲ばれる。行政上からの標津原野・中標津原野の創始は、元禄年間に さかのぼり、松前藩の所領に始まり、寛政11年幕府の直轄となった。文政4年7月松前藩に復し、安政 元年再び幕府直轄となり、安政6年会津藩の支配下に属した。明治2年8月開拓使が置かれ、同月熊本藩 の支配を受け、明治3年開拓使根室支庁の直轄になり、明治12年標津村外六ケ村(茶志骨村・伊茶仁村 ・忠類村・薫別村・崎無異村・植別村)戸長役場を標津に設けて、7村を統治した。明治15年開拓使を 廃し、根室県が置かれ、その所管となった。明治19年北海道庁直轄となり、明治34年には植別村を分 轄して標津村外五ケ村戸長役場と称した。明治35年に至って、はじめて広漠たる奥地原野を殖民の地と して区画開放し、その地名を標津原野・中標津原野・上標津原野・春別原野と称し、北海道二級町村制の 施行に伴って大正12年4月1日に標津村となった。
 開拓の歴史は、明治19年根室郡和田村に設置された屯田兵が始まりで、越えて22年までに440戸 を移住せしめて大農村の組成をみた。しかし、農事に経験の乏しい者の集団であり、当局もまた当地方の 農事に経験浅く指導よろしきを得なかったために、とくに森林は濃霧発生の素因をなすとの誤解から樹木 を乱伐した。その結果、海霧または強風の害を受ける事が多く、遂に専農をもつて立つことが出来なくな り、現役(編集注 屯田兵の兵役期間、任期)を終えると同時に大部分が四散し、根室は農耕に適せずと いう誤信のまま空しく十数年を過ごした。明治35年4月、時の木下道議が第1期北海道拓殖20年計画 の樹立にあたり、人跡稀なこの原野をアイヌの案内で踏査し、明治40年には道庁技師蛎崎友治郎氏の一 行が親しく西別、春別、標津の各原野を地質・植物・または気候等について実地調査の結果、正しく農耕 適地の確信を得た。明治43年、春別に農事試験場を開設して試作の結果、穀菽(編集注 こくびょう  菽=豆)蔬菜類のうち米を除いては、ほとんど成熟しないものがなく、農耕に有望な価値のあることを如 実に立証した。しかしながら、先の悪評が先入観となって容易に開拓に志す者がなかった。第1期拓殖計 画以降次第に開発され、数百戸の集団入植者は、海岸地帯より川北・武佐(大正2年)・開陽(大正4年 )・俣落(大正6年)と西進し、拓けていった。昭和2年から20ケ年を一期とする第2期拓殖計画によ り、府県よりの許可移民百数十戸入地し、開陽・俣落をはじめ、昭和3年には上標津、昭和4年には養老 牛に、それぞれ開拓の鍬が打ち下ろされた。昭和6年以来打続く冷害凶作にあい、穀菽単一農業を転機に たたしめた。昭和8年この経験から有畜農業に転換し、根釧農業開発5ケ年計画により酪農経営の実現を みた。隣接部落の、東は開陽・俣落、西は養老牛・上標津に相次いで入植しつつあった時、中間地帯の西 竹はじっと開拓される日をまっていた。東西をつなぐものは、大正始め頃に出来たと思われる14号道路 と、大正9年西村武重氏が私費でつけた俣落川より温泉までの、俗に言う温泉道路があるのみで、乗馬で もかくれるばかりの一面の萩と熊笹の原で昼なお暗き密林におおわれていた。川には、鱒・鮭が群れをな して遡上し、棒を立てても倒れないほどであり、この上ない天然の孵化場であり、山には、コクワやブド ウなどの幸と、熊・狐・兎の天国であった。
 しかし、いつまでも獣の天国ではありえなかった。人間の足音が近づいていた。熊笹を踏み分けて、昭 和15年の春、40線13号に小原万一氏が入植した。文字通り、草分けである。39線14号にこざっ ぱりした開拓者のための建物がひっそりと建っていた。そこに落ち着いて、着手小屋をつくり始めた。( この建物は利用度が少なかったためか、川北小学校の生徒急増による強い要望のためか、身売りして間も なく姿を消してしまった。)翌16年春、小原氏の近くに斎藤民次郎氏、荒川の向かい29線12号付近 に斎藤宇吉氏とその長男の3戸が入植、17年には鱒川14号付近に鶴味・五十川・竹口の3戸が入植( 後に鶴味・五十川氏は、立地条件が悪いので40線14号に変更入植。)。18年には2戸とボツボツ入 植し、時あたかも大東亜戦争に突入し、若者は前線にいき、開拓は頓挫の姿であった。また、開陽に軍の 飛行場が出来て、そこに入植していた保岡彦六氏は、昭和17年土地をもらい、18年に通いで諸準備を 整え19年に移住した。更に同年、松村都美夫・半沢一雄・小野与四治の諸氏が入植し、ようやく開拓の 曙光は見出された。越えて20年、終戦とともに社会情勢の変化・時代の要請にもとづく行政措置によっ て、戦後緊急開拓地としてクローズアップされ急速に拓けていった。

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