部落の誕生 上西竹部落

 終戦の年の初冬、十数名の入植者が小屋掛けをして、冬ごもりした。あけて 21年に続々と仲間が増えて心強さを感じた。とはいえ、東西南北どちらを見 ても、丈なす熊笹で道もなく、配給物資の受領や購入品の運搬などには並大抵 ではなかった。
 部落集会は、北西竹に属していたので、4kmもある鱒川べりまで、その都 度でかけた。朝通った道が夕方には判別できない状態で、不都合このうえなか った。それで昭和22年1月鱒川べりに居た五十川伝七氏が40線14号に居 を移したのを機に東西竹部落をつくり、23年1月分割の声が高まり14号上 が分かれた。加藤祐和氏・猪口幸七氏の提唱で、吾々が北西竹といいたいとこ ろだが、現在、西竹・北西竹・東西竹の3部落がある以上、それも出来かねる ので上西竹にしようということになり命名し、結成を見た。
 初代農事実行組合長保岡彦六氏を中心に、当時は配給係(後に開拓連絡員) の大仕事があった。衣類・ゴム靴から肥料の配分まで労力や責任は大変だった。 また、開拓連絡員と名称が変わってから、道貸与の牝牛が導入された。その配 分交渉・受領・配分に努力を重ね、今日の土台を築いた。児島定雄・清野国雄・ 戸田直治・小舘善作・小舘三郎の諸氏が、その任についた。やがて、奥(地) が開かれるにしたがい、北光の分離となった。


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