生産

作付の変遷 ―概況―

 食糧難の時代、終戦後は食料をつくることが先決であった。ソバは生育が早い ので、開墾が遅れても蒔きつけをして、たいてい収穫できたので、全戸が作付け した。麦は米に次ぐ食料とあって、販売用としてではなく年間自家消費量を考え て作付けした。
食料となり、とれる見通しの物は各種取り揃え、それこそ百姓百色の言葉の通り 蒔きつけした。イナキビ・ヒエ・アワ・エンバク等の雑穀、テイボー・中長・紅 金といった豆類、トウキビ・ニンジン・ダイコン・カブ・カボチャにゴボウ・キ ャベツ等の蔬菜に至るまで作付けした。
しかし、熟畑がないためにジャガイモやビートは俣落方面の古い畑を借りるか、 僅かの自分の畑を砕土して作付けした。したがって主要作物でありながら、作付 面積は多くなかった。熟畑ができる6年間くらいは雑穀が主であった。
 麦は作るより、購入するほうが有利であると考えるようになり、昭和38年頃 から少なくなり、間もなく姿を消した。燕麦( エンバク )は、馬を耕作の17 力としている関係で、当初から引き続いて作付けされている。現在は、馬の頭数 が若干少なくなったとはいえ、どの家でも飼育しており、馬糧に青刈りして使用 されている。
豆類は、危険作物であるという指導部の助言や、冷害に遭遇した経験から作るこ とが少なくなった。亜麻(アマ)は、昭和25年に帝国製麻が進出し耕作を奨励 したり、早期に現金が入ることや牧草の混播によい作物なのでほとんどが作付け していた。しかし10年をたたずして、その中標津工場は閉鎖し(昭和36年) 、亜麻耕作は姿を消した。
29年31年と引き続く冷害で、畑作状況は適地適作を貴重に考え、危険作物は ほとんどつくらなくなり、馬鈴薯(ジャガイモ)・ビートに主力がおかれるよう になった。そして、家畜の飼料作物に大幅に切り替えられた。牧草に金肥が使わ れだし、サイロに牧草が詰めこまれるようになった。根菜類が乳牛頭数に応じて、 多く作られるようになった。

 昭和30年前後、菜種(ナタネ)が線香花火的に現金収入の途として、投機的に 作られた。
 昭和30年頃の畑作・畜産の収入は、7対3くらいであったが、以後乳牛の頭数 が急増し、現在では、その位置が逆転し、専業酪農家が誕生するに至った。
   現在の畑作物はジャガイモ・ビートが主で、4割くらいの戸数が平均1町歩を作 付けしている。エンバク・ソバは、2割くらいの農家が作付けしている。


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