生産

酪農の推移

 昭和20年の終戦当時、約10頭あまり、搾乳戸数4戸であり、酪農とは程遠 い状態であった。入植者は、もっぱら開墾と施設の完成を急ぎ、またその完成が 開拓の成否を決定する最大の条件であった。入植3年目あたり、ようやく牧草畑 の1町歩くらいできた頃に、当時の開拓制度で貸付牛(仔返し)を国・道・町・ 農協より貸与をうけ、また、開墾補助金や自己資金を投じて、一日も早く酪農へ の足がかりをつくるのに懸命であった。
 昭和23年には保岡正夫氏が種牡牛を導入し、仔牛の生産と乳牛生産に大きな 役割を果たし、安心して生産に打ち込むことができるようになった。また、29 年には農業試験場が貸付するブラウンスイス種3頭が地区に入り、品種適応性の 研究がなされるなど、酪農への道は深められた。

 昭和30年高度集約酪農地区指定と同時に、制度牛の大量導入をうけ、特に3 1年32年33年には世銀資金によるジャージー牛の大量導入がなされ、当地の 酪農に画期的な役割を果たした。加えて、制度資金(乳牛導入資金)及び開拓事 業団融資による導入により飛躍的増加をみることができ、酪農経営で立つ確信と 将来への明るい見通しができあがった。
 生産面における施設も年々整備され、ジャージー種の導入により、昭和32年 ジャージー種牡牛が北光部落(内山勲氏管理)に、34年北進部落(弾正原正春 氏管理)に、37年高嶺部落(横田国雄氏管理)へと地域内に計4頭が配置され た。こうして、人工授精の充実を図り、生産の増大を図るとともに、37年以降、 北光家畜管理所に人工受精師または冬期に獣医師を配置した。現在これらを背景 に既存農家を凌駕する現況である。
 加えて昭和41年農業構造改善事業の第二次指定を受け、現代酪農への歩みを はやめつつある。部落においても生産向上のため、東西竹上西竹酪農振興会・北 光酪農振興会・群馬高嶺北進酪農振興会と、各ブロックで活発な活動を展開して いる。(種牡牛、昭和24年から現在 中條忠二氏、北光では前原秀隆氏 管理 活動す。)


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