集乳所と運搬 ―集乳の推移―
昭和20年、東西竹40線14号に集乳所が設置されたが、乳量僅少なため
に共同運搬をした。主として保岡彦六氏が、これにあたる。12キロメートル
の山道を運ぶ苦労は大変で、乳の一滴は血の一滴であった。それで、交渉の結
果、昭和22年集荷所を開設して、牛乳を集荷しミルクを分離して、それを計
根別まで持ち込んだ。以後一時中断したが28年再開した。32年には明治乳
業が進出し、庭先集荷を始めた。
一方、19号を中心とする北光地区は26年頃に牛乳生産がようやく増え、
雪印乳業俣落集乳所に各自が持ち込んだ。29年第二俣落・北進部落にも中浦・
国光氏等が牛乳を生産するようになり、集荷方法の改善を交渉し、29年8月
より幹線トラック集荷をすることに成功した。
昭和32年明治乳業進出と同時に、開拓地にも生乳集荷合戦が展開された結
果、主として東西竹は雪印乳業計根別工場、北進・群馬は雪印乳業中標津工場、
北光を中心とする地区は明治乳業という三様の形態となった。
生産の増大により、36年8月明治乳業は北光に集乳所を建設し、当時日産
600kgの受け入れを開始した。このことは、牛乳運搬の合理化が、振興に
直接つながることが痛感された。37年生産者の要望によって、雪印乳業も1
月より39線19号と第二俣落38線23号に集荷所を開設し、冬期集荷を開
始した。しかし、39年4月末には、雪印の両集荷所は閉鎖された。
奥地の群馬・高峯は、34年春より養老牛の集荷業者に依頼し、雪印養老牛
集乳所に出荷した。35年明治乳業俣落集乳所開設と同時に、俣落の雪印及び
明治の両集荷所に分割出荷することになった。
現在、北進集荷・北光明治集荷・東西竹集荷とも日産十石(編集注 約18
00リットル)余りあり、複雑な出荷体制(形態)のまま今日に至っている。
近い将来には集乳の合理化を図り、共販の実をあげる運動が展開されている。
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