◆食糧事情

1 山菜を求めて
 生きていくうえで食料がないということくらい、惨めなことはない。食べ物をあさることに汲々と していた。米の配給は名ばかりで、一握りといっていいくらいの少量で、病人用か、まぜても味噌汁 に入れる味の素くらいだった。したがって、ソバ・ムギ・イナキビ・ヒエといった雑穀が上等の食事 で、馬糧のエンバクも精米所で皮をむいてもらって、飯か雑炊にした。
 エンバクについては、アメリカではオートミールといって、ごく栄養があって、みんなが食べてい る上等食だなどと宣伝され、本気になって多量に精米所にやった。精米されてきて、ふたをとって見 ると、まだ皮のむけていないのがボツボツ入っていた。しかし初めてなので、こんなものかくらいに しか思わなかった。大きな期待に胸をふくらませて、生まれて初めてのエンバク飯、アメリカでの栄 養食を炊いた。なるほどいい匂いだ。勢い込んで口に入れたまでは良かった。ところが、口の中はモ サモサして喉を通すことができなかった。小石一つ入っていても吐き出すことが普通なのに、あの皮 の硬いモミがバラッとゴマをふりかけたようにあるのだから、たまったものではなかった。こんどは、 口に入れる前に一口分だけ丹念に箸でつまみ出して、モミをテーブルの隅に置き、プチプチしてしば らく噛まないとこなれなかった。選別作業と咀嚼(そしゃく)作業にものすごく長時間を要して、お 茶漬けサラサラというようなわけにいかなかった。
 せっかちな者ならかんしゃく玉がいくつあっても足りなかった。しかし、この際ほかに無いのだか ら、短気の虫を抑え抑え、どうにか食べ終わった。テーブルの隅には、うず高くモミの山ができてい た。精米所へ行って、何とかならないのかと文句を言ったが、皮をむくローラーのゴムが減っている とか、これ以上どうにもならないとか、悪ければ頼むなと言わんばかりで、仕方が無いのでやむなく 2・3日食べ続けたが、とうとう堪忍袋の緒が切れて馬に食わしてしまった。
 伐開で一日中サツテをふりまわすと、メチャクチャに腹がへる。それで、労務加配米というのがあ った。配給係の懸命な努力で、根室支庁総務の谷内田さんに頼んで根室市配給所倉庫のハキダメ(掃 き溜め)を6・7俵もらった。このなかには勿論、石炭・バラスが混入していてニワトリの真似をし なければならなかった。米と名のついたものは、ハキダメでもともかく人の食糧であるが、澱粉工場 で澱粉カスを食糧として分けてもらった。二番粉の混じったものの方は上等で、黒味がかった代物は 言わずもがなであった。「開拓のはじめは豚と一つ鍋」と依田勉三翁は言ったが、まさにその通りで あった。馬や牛が草を喰って、あの強靭なエネルギーを出すのだから、人間がその秘密を科学的に分 析して、食品化することができないはずはない、必要は発明の母だ、ということで計根別に粉化工場 ができた。脚光を浴びて出発したものの、けものと人の胃の機能の違いからか、分析の不十分からか、 製造工程か、経営面か、しばらくして音沙汰なくなった。
 しかし山菜は豊富で、丈なすフキが荒川に繁茂し、春先にはいち早くウド・ヤチブキが、続いてワ ラビ・コゴミ・タンポポ・ニリンソウ・アズキナなど青物には不自由しなかった。おかずとなるはず のフキが主食の座におさまり、さしものフキが影をひそめた。

2 大自然の恵み
 人間どもが飢えていることを伝え聞いてか、鱒や秋味(編集注 鮭)どもが荒川や小川にまで遡上 してきた。産卵後の朽ちていく身を献げた。逃げかくれもしないで、静かに人の手でつかまれた。網 のベッドに静かに横たわった。秋の木枯らしと一緒に川を下った。
 人は、木の葉と魚で網が流されないように、冷たく切れるような川の中にパンツ一丁で入って、時 々掃除してやったものだ。ヤスとかカギとか呼ばれるもので魚を安楽死させるのも有効な方法で、漁 師出身の開拓者の腕のみせどころだった。
 大自然の恩恵で蛋白質源も確保でき、栄養失調をまぬかれた。海の漁師が不漁でボヤいている時、 山にきて目を白黒させ、山に漁にこようかといった話を聞いた。


◆山火事

 開墾につきものは、火入れである。異常乾燥になると土が燃えた。ていねいに火防線をきっても、 堆積された腐植土は火をつたえ、方々で火をもたらした。
 なかでも大きかったのは、昭和25年春の火事であった。1週間にわたって夜空を焦がし、およそ 2000町歩、近くの山の頂上まで燃え広がった。あたり一面は笹原であり、その中に開拓者の人家 があり、薪が野積みにしてあり、それらを守るためにも地元部落だけでなく隣部落からも続々と火消 し人夫が繰り出された。南風にあおられて北上し、更に風がかわって西風となり、火は俣落川を渡っ て対岸に移った。山火戦線は拡大の一途をたどり、人力では如何ともすることができなかった。
 しかし、黙っているわけにもいかず、山火事について行った。山を越え川を渡り、谷を横切る強行 軍だった。夜ともなればあたり一面真の闇、地面一帯が真っ黒で、闇夜に歩く人も真っ黒、顔の表裏 は笑った時に見える歯で弁別する有様だったからたまらない。足音と汗くさい臭いで隣の人とはぐれ ないようにするのが精一杯だった。何のために歩いているのかさえ考える暇がない、だが疲れてくる ので、歩きながら居眠りする。帰ろうにも、どっちに行ったらよいか判らない。ふと気がつくと、は ぐれていたり相手が見えなくなったりしている。そこで、オーイ、オーイと呼び合うと、予想外の方 向から返事が聞こえる。あって見たら知らない人で、誰だと聞くと、山の営林署の本職で、「仲間に はぐれた、腹がへってたまらない、水が飲みたい」などと憐れな声を出す。
 こんな調子で、不眠不休の努力が神の意にかない1週間後に鎮火した。九州あたりの新聞にも掲載 されたとか、西竹の名を全国に紹介したわけだ。


◆無医村の悩み

 子供にとって、山はまさに天国である。山道の通学道路には、山ブドウやコクワがすずなりになっ て子供の登下校を待っていた。秋晴れのいい天気、土曜日である。腕白を先頭に、ブドウづるのジャ ングルにもぐりこんだ。甘酸っぱいブドウは、舌にしみた。しかし種子の多いのが邪魔だった。エイ、 面倒だとばかりに種子も一緒にモリモリ飲みこんだ。次のジャングルは、前より一層黒光りのする粒 の大きいブドウだ。これを見捨てておかりょうか、また種子ごとパクついた。いつしか陽は西に傾い ていた。それに気づいた彼らは、満ち足りた気持ちで帰りかけた。
 ところが、どうしたことか、一人が腹を押さえて立ち上がろうとしない。腹痛なのだ。あたりは暮 色が漂い始めたので本人も我慢し、友達に支えられてようやくたどり着いた。帰りの遅いのを心配し ていた家人は、顔色のない我が子が、友達に支えられてきたのをみて驚いた。うめく我が子を前に、 どうすべきかウロウロするばかり。この奥では、徒歩か乗馬以外しか足はない。20km離れた中標 津まで走ろうか、だが行っても夜中。そして、果たして医者がこれるか否かも問題だ。その間に、も しもと悪いことまで心配してただ背中をさするばかり。そうだ、保健婦さんに診てもらい、応急手当 をしてもらおうと山道を転がるようにして開拓保健婦さんに連絡した。そして、すぐ診てもらった。 果たせるかな、ブドウのしわざである。適切な処置で一命をとりとめた。まさに命の恩人である。話 に聞くと、肛門までびっしりとブドウの種が詰まって、ピンセットで1個ずつはさんで除去し、届く限 り掘進し、その後徐々にもみほぐして出したとか。


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