◆道程 〜「あけぼの」から北進へ〜          石原 次郎

1.ストーブ列車に乗って
 昭和26年5月3日。バラ色の夢を描いて、灰色の戦後から終われるように、最果ての地に来 てしまったという感じは、標茶からストーブ列車に乗ってしみじみと強く感じた。
 岡山を出発した時は、桜は終わり五月若葉がもえていた。が、この草原には、笹やぶの中に青 木が点在しているが、青いものといえば数えるだけだった。荒涼とした丘とも山ともつかないだ んだら峠を縫うようにして、ストーブ列車はノロノロと走り続けた。
狭い車内、板張りの座席、ゴム長をはいたひげもじゃの男達、丸いストーブを囲んで話している 老婆、我々の人生の門出を迎えてくれる根釧原野は、親わしくもあり、また厳しくもあった。

2.旅館にて
 昼過ぎ、列車は中標津駅に着いた。さわやかに晴れて暖かい日であった。4・5人の人に温か い出迎えをうけた。後でわかったことだが、役場の阿部課長・米沢開拓係、農協の松尾開拓係、 それに地元の駐在員太田氏であったと思う。
 旅の疲れも不安感も吹き飛んだ。一行は、案内されるままに路地から線路伝いに続いた。阿部 課長が重い荷物を持ってくれた。思えば懐かしい道である。線路を渡ると、旅館という旅館があ った。今は古くなったが、当時はまだ新しかった。ここが、今晩の宿である。
 挨拶が終わると、各個々の紹介があった。更に、現地の様子・生活の厳しさ等、話は尽きなか った。
「このような所と異なって、あなた方の行くところは誰もいない。そして、何も無いところだか ら強い決心が望まれる。熊が出るということは、話だけでなく現実にあることだ。熊が恐ろしい ようでは、到底開拓はできないから、今すぐ引き返して内地に帰ってもらう。どうですか、皆さ ん、やれますか。」今までとは一変して、阿部課長の態度は冷たく厳しかった。・・・(編集注  判読不能)・・・とした空気がただよった。間をおいた課長は更に、「日本ばかりでなくアメ リカにおいても開拓ということは、如何に厳しいものか歴史が伝えている。しかしまた、喜びも 開拓者なればこそ、人一倍のものがある。あなた方も今から町民であり開拓者であるということ を忘れないように・・・。」 我々の町民編入テストは終わった。
 昭和26年5月3日、戸籍台帳にちゃんと書いてある。我々の団体は、4家族12人である。 団長は、赤木泉美氏である。

3.俣落
 明くれば、俣落行きである。3台の馬車がやってきた。太田氏よりの差し回しである。太田氏、 秋山氏、広瀬氏だったと思う。柾ぶき板張りの何の変哲もない軒並みを仔馬を連れた馬車がぬけ ていく。埃っぽい長い道路が開けてきた。雑木林の間に農家がぽっんぽっんと点在している。と ころどころにぬかるみもあった。馬車が大きくゆれる。山のかなたの幸せを求めて北海道に来た 我々ではあるが、うらぶれた田舎まわりの旅役者の姿にも似ていたことであろう。
 長い直線道路をすぎると、道は右に折れ山にさしかかった。道路は、だんだん悪くなってくる。 しかし、それは山ではなく、上りきったところは台地になって開けていた。更に道は下りにきた。 落葉松に囲まれた、落ち着いた家並みが目に映った。30年の歴史を持った俣落である。我々は、 この俣落部落の分家として、奥に「俣落第二地区」を造るための開拓者であることを教えられた。
 我々はどこに連れて行かれるのかわからない。しかし不安は少しもなかった。着いた所は、共 栄の集会所であった。ここで、我々は入植の手続きや打合せができるまで過ごすことになった。 俣落は、広くのびのびとしていた。人情も良く親切で、我々内地人の考えも及ばないところがあっ た。隣から美味しいたくあんや野菜をどっさりもらった。どこからか帰ってきた団長の赤木さん が、ヨモギもちをご馳走になったと言う。「でも、もちではないが、もちを食べた。いったいあ のもちは何だろう。」と・・・。それは、未だに謎であるが、多分澱粉もちだったろうと思って いる。
 朝は早く太陽が昇り、また晩は遅くまで明るい。晴れた日は、内地を思わすように暖かいが、 曇った日は冬のように寒かった。数日があっという間に過ぎていく。我々は、次第にあせり気味 を覚えていた。我々の行くべき土地が決まったのは、ここに来て1週間も過ぎてからであろうか、 ついに決まった。

4.ポンマタ
 共栄から上の部落は西共栄と言って、まだ若い部落だ。その上は採草地で、ずうっと道路はな く、採草地では全然道はない。ウサギの通ったように草が踏まれているところが道である。笹は 腰まで密生していて、萩は背丈を越している。今の19号である。妻や子供も、自分の土地への開 放感が案外楽しそうであった。遠い山奥とか、さびしい原野というような感じは起こらなかった。 馬車は大きくガタンゴトンと揺れていく。ナラとシラカバの間に真新しい2軒の家が目についた。 藤井さんと谷村さんの家である。このようなところに家があるのかと目をみはったほどだ。彼ら は畑の麦まきであったらしい。独身の青年二人、二頭の馬が妻のように付き添っていた。傍らに は、川が流れていた。この川は、標津川の支流でポンマタ川といった。このポンマタ川に沿った、 この地一帯をポンマタというのである。
 この日より、藤井さんは谷村さんの家に引っ越した。引越しと言っても何もないので、自分が 蒲団(ふとん)を持っていけば、それで事足りた。藤井さんは我々に宿を貸してくれたのである。 我々は、藤井さんの家を自分の土地の着手小屋を造るまでお借りすることにしたのである。ここ でしばらく4戸の共同生活のようなものが始まった。阿部課長をはじめ、米沢さんや農協の松尾 さんが足しげく開拓地参りをされるようになったのも、おそらくあの時が始まりであったのでは ないかと思う。それは、我々が頼りにする人もない遠来の客であったからでもあろう。このこと が尾を引いて、米沢さんと松尾さんのおしどりコンビが始まったのだ。乗り物も道もない時代だ。 二人は、泊りがけで開拓地を廻ったものだった。隣に、20人ほどの若者の開拓者が入っている ことを知らされたのもこの頃だった。今の新生部落のことだ。今の新生から今の北進の道路をつ けたのは、開拓者でもなければ熊でもない。実に、米沢さんと松尾さんが足しげく通ってできた 道であることを、ここに紹介しておこう。米沢さんのあとに必ず松尾さんがついて現れ、松尾さ んがいるところには、また米沢さんが必ずいた。米沢さんは、現在役場の財務課長であり、松尾 さんは退役して中標津市街で生活している。
ポンマタ川にはアイヌネギ(ギョウジャニンニク)が出ていた。魚はいくらでも釣れた。フキや ウドも出た。寒い国独特の山菜である。

5.あけぼの
 ポンマタの川伝いに熊笹を刈り、潅木を切り開いて道をつくった。そうして、着手小屋を造 るのに何日か通った。原野と言っても何もない。大きい木は営林署の財産で手がつけられない。 小さい木は、運悪く生えていない。笹で屋根をふき、壁にも笹をつけ、床も笹でおおった。莚 (むしろ)を敷いて寝転んだ時、初めて自分の家であることに満足した。藤井さんに別れを告 げて、この乞食小屋に住むようになったのは、6月下旬であった。赤木さん高原さん、国光さ んもみんな思い思いに小屋を造った。どんな家を造ったのだろうと、お互いに訪問しあった。 汗と垢にまみれた顔が、拝み小屋からぬっと現れた。そして、その顔がにっこりとほころびた。 その顔は今でも生々しく残っている。
 シュル、シュルシ、シュルと急降下してくる小鳥が開墾鳥といって、開墾の始まることを教 えてくれたが、もうその鳴き声もいつしか止み、カッコー鳥の種まき開始の知らせである。疲 れた体で夜を迎えれば、「チャン・ピョン・ピン・カケタカナ」と沢の中で盛んに鳴く小鳥も いたが、今はいなくなった。
 火防線を切ったが、火が入らないので島田鍬で萩を倒していくのが、今日此頃の日課である。 暑いときには暑かったが、一度ガスが降ってくると冬のように寒かった。しずくが衣服をポタ リポタリと伝わった。子供は、大きいのが今5年生である。朝6時ごろに家を出た。晩は日暮 れに帰ってくる。片道2里半近い道のりである。朝露にビッショリ濡れて通学したが、俣落で は朝飯らしいイモの味噌汁の匂いが、ツンと鼻をついたと言っていた。
 当幌の通路は、14号より上は一本もなかった。勿論部落もなかった。ただ岡山より入植し たので、岡山団体と呼ばれていたに過ぎない。いつまでも岡山団体では不便なので、部落をつ くろうと相談した。4人で考えた結果、「あけぼの」部落と名をつけた。当時、日本は暗い苦 しい生活の時代であった。考え方によっては、その壁にぶつかった人々が開拓にきたといって も過言ではないと思う。若い人は社会的・経済的な問題など、皆いずれ何ものかにぶつかり、 北海道に新天地を求めた人々である。
 「あけぼの」部落は、我々のユートピアとして出発した。

6.北進部落
 一番嬉しかったのは、畑がおきた時である。光った黒土の上をカラスがまわっている、夢に 見た黒土である。これには、俣落の若森さん、北光の滝本さん・滝ヶ平さん・一木さんの協力 によっている。このような時、農協の松尾さんが汗をふきふき自転車でやってきた。勿論開墾 の進展については、満足であった様子である。「ところで、・・・」と、松尾さんは何かのき っかけをつかみ話し出した。「今日も、あけぼのへ行くと言って出てきたんだが、実は市街に あけぼのと言う料理屋があるので、なんだかポイントが外れて困るんだが・・・」と、いかに も弱った様子である。「できることなら、部落名を変えてほしいんだが」とのこと。
 あけぼのとか、しののめという言葉は何も悪いことではないが、そう言えば遊里に良く使わ れている言葉である。理にかなっているが実にそぐわないということも考えられないことはな い。早速松尾さんの提案に耳を傾けた。「北光の北に位置して、しかも標津岳の麓までとどま ることを知らないで進みひらけてゆく」という意味で、「北進」ではどうだろうという事であ る。実は、前に「あけぼの」部落に決まった時、国光さんから「北進」という案が出ていた。 名付けの親は松尾さんだが、先に国光さんの思いつきもあった事を、今ここで皆さんに披露す る。かくして、ついに北進部落は誕生した。
 間もなく藤井さんと谷村さんが、部落に入れてもらいたいと申し出があった。
4戸の部落戸数が、6戸になった。さらに、武佐団体からも申し出があり、荒川の広島委託生 、俣落の二・三男組によって、北進部落は北へ北へとのびていく。人の歩いていくところが道 になり、道の続くところに家ができ、その煙突から煙が立ち、ランプの火影から笑い声ももれ てくるようになった。この夏、我々は一戸平均3・4町の畑に蕎麦(ソバ)をまいた。
 ソバは、芽が出た。しかし、よく生育しているのかどうか、初めてでわからない。ただ日に 日に伸びるソバが嬉しかった。結果のことよりただただ努力してきたという満足感だけでいっ ぱいだった。冷害も知らなければ、吹雪の恐ろしさも知らない我々である。まして、時代の波 に浮かぶタイミングの難しさなどを考えてもみなかった。一歩前進すれば、二歩遠のいていく。
 ソバ・豆・麦・イモと酪農への道は険しく遠かった。血みどろの戦いは、これからとなって くるのだが、北進部落誕生までのあらましを思い浮かべてみた。最後に、農業近代化に協力し 勇退された、今はなき人々への地区発展への功績を忘れてはならない。


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