◆群馬部落十年の歩み
昭和29年4月8日、猛地吹雪のなかを北進部落さしまわしのバチにそれぞれ分乗させてもらい
俣落を出発し現地に向かったのが、北海道群馬部落のスタートであった。それぞれが、先輩「北進」
の方々の家に分宿し、翌日より着手小屋の建設にかかる。建築資材や馬・野菜調達まで、北進・北
興の諸先輩の配慮によるところが大きかった。
初年度入植は一般入植者を主体とし、第二次は委託生・実習生と一般入植者、第三次は委託生主
体というように、逐次群馬県人が入植し、団地らしくなってきた。母県群馬より送り出された開拓
者と開拓地は多いが、団地としては中標津群馬団体が、今のところ一番大きいものとなってしまっ
た。
□部落名称
北進四区から出発した群馬団体も、いろいろな点から独立することになり、その呼称についても、
いろいろな意見が出てきた。まず、第一に、群馬という文字を入れた呼称であった。が、ここまで
来てまだ県人根性を出すようでは、少しスケールが小さすぎるのではないか、もっと北海道に溶け
込んだ呼称のほうが良いのではないかという意見も相当強かった。この現地が非常に平坦広漠とし
た地形であるところから、大先輩でもあり町の長老である佐藤甚平翁の名を借りて、甚平(じんだ
いら)部落とするような線も打ち出された。しかし、周囲の人々はこの団地をすでに群馬団体とか、
群馬部落と呼称していた。なかには、「群馬県は、どこか。」と聞かれたという笑い話も出るほど
で、言い換えれば周囲の人々によって群馬部落という呼称が誕生した。団地があまりにも広く、部
落運営上不都合を感じ、後に高嶺部落と二つになり、更に白樺共農・佐藤牧場が分離した。
村づくり社会建設という面からみると、現地側から言わせればかなり言いたい事もあると思われ
るが、現在の国情や開拓政策から推してみて、かなりこの地帯が重点的に取り上げられていること
がうかがえる。と同時に、関係機関の熱意や苦心に対して、この際敬意を表してよいと考える。も
しこの意見にご不満の方は、親しく内地の開拓地の施設をご視察願うことにしたいと思う。
□電気・水道
仮小屋住まい・ランプ生活も覚悟のうえであったが、関係機関の活躍で他地区または既存農家の
よりも早く電気導入が実現された。本地帯は、川沿い入植の一部の人を除いて水利の便が悪く、井
戸の利用も不安定の極めにあることが専門家の調査により判明し、入植者の定住意欲に激しい動揺
をきたした。しかしこれも、簡易水道の早期実現をみて解決し、将来の畜産経営にも大きく貢献した。
□道路・交通
入植当時は、団地内だけに幹線一本、39線の延長路線が見事に出来上がっていたが、隣部落に
行くには、川を渡るか身長大の熊笹を分け進むかしなければならなかった。まもなく、開拓道路の
延長工事が着工となり架橋もされ、この完成によって、はじめて第二俣落地区全体が完全に結ばれ、
新生・北進・群馬の各部落が円滑な交流をみることができるようになった。
また、養老牛の市街や温泉にも行き来ができ、続いてバスの定期運行により積雪期を除いて中標
津市街にも、40・50分で行ける段階に到達した。
□教育
第一次入植は、一般入植者が主体であったために就学児童が他部落より比較的多かった。入植当
時には、中学生は俣落の既存農家に預けて就学させた。小学生は、その当時の第二俣落分校に通学
させたが、冬期は通学不可能の距離と地形にあり、父兄の心痛事であった。たまたま、奥地の学校
新設問題が起こり、若干のトラブルはあったが、結論的に現在の場所に新校設立(編集注 西竹小
中学校のこと)をみて、愁眉をひらいた。
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