◆郵便制度について         保 岡 茂 夫

 現在の奥西竹地区には昭和15・16より入植が始まり、奥西竹に郵便物が配達されるようになっ たのは、昭和22年3月10日である。
それまでは、計根別郵便局より、鱒川まで配達されていた。したがって、わたしたちの郵便物は、 鱒川の入植者の家に預けられていたので、部落の人たちが交代で取りに行き、持ってきた郵便物 は隣から隣へと回覧式に配達されていた。
 終戦後続々と入植者が多くなると、当然集配が問題になってきた。部落の人たち(保岡彦六氏 等)が計根別局に折衝して、ようやく配達区域にしてもらうことになった。そのために、私が昭 和21年12月1日より西竹地区一円の配達をすることになった。現在の雪印工場(編集注 計 根別)より西竹・北西竹・若竹の一部を鱒川まで配達したのである。約3ケ月半、朝5時に家を 出て計根別近くまで行った時、ようやく太陽が顔を出してくる。局へ着くと、手を暖める暇もな く郵便物の道順組み立てをして、配達に出かける。雪が多くなると、終戦後のため物資不足で軍 の払下げスキーが貸付された。長さ1メートル位の巾の広いスキーであるために、まことに歩く のに苦労をした。受け持ち区域を廻って帰宅すると、午後5時ごろである。3ケ月半の苦労は今 でも頭に焼き付いて忘れることができない。
 ようやく念願かなって、奥西竹地区集配が許可になり、22年3月10日より配達が始められ たのである。郵便物は、西竹分校(45線北14号 編集注後に移転して若竹小学校に改称)ま で局から持ってきてくれるので、そこまで私が取りに行くのである。集配区域は、10号より1 8号の26線より42線間で、18号以北は人家少数のため配達区域外であった。
 2・3年すると入植者が増えてきたので、21号まで集配区域になったが、道がなく橋がなく、 川を渡るときは、川ぶちの木を倒して一本橋がかけられているので、自転車もろとも川の中へド ブン・・・。
今になると、遠い昔の思い出である。何度やめようかと思ったかわからない。だが自分が今やめ ると、誰かがこういう苦労をしなければならない、自分がやらなければならないと、自分に言い 聞かせて歩いたものだ。苦労の反面、うれしいこともある。小包等を配達すると、「郵便やさん、 一寸待って。」と呼びとめられ、内地の珍しい贈り物のおすそ分けにあずかるときもあり、有難 く頂いて帰ってくることも何度かあった。小さいお子さん達が、私が行くと我先にと郵便物を取 りにきてくれる。本当にいじらしいことだ。一人にやれば、一人が泣き出すし、どちらにやった らよいか迷うこともしばしばある。「あんたには、明日持ってきてあげるからね。」と、ようや く納得してもらう。可愛らしい声で、「ありがとう。」と言われた時は、本当にうれしい気持ち になる。吹雪の時等は、「こんなにひどい時は無理をしないで、気をつけなさいよ。」と励まさ れる時など、自分に与えられた使命に感謝の気持ちでいっぱいだ。しかし、雪が降ってスキーも まだ早い、車も使えない時、また春先の雪解け水の出た時は、「馬喰二代」の映画ではないが、 「配達一代」が勤まるだろうかと不安を感ずる時もあった。
昭和27年吉田内閣の行政整理で自局より8km以上の集配区は、請負集配となった。私達は切 替になったので、被服・スキー・自転車は貸与された。請負になって13年になるが、組合でも 本務化になるよう運動して下さっているが、道はまだ遠く険しい。一日も早く本務化されるよう 心に念じている。
その後年毎に入植者も増えて、21号まで配達することになった。配達区内の延キロ数も45キ ロメートルと広範囲になってしまった。31年までは非常につらかった。
 山の下まで入植してしまっていたので、藤井さん達の数度にわたる陳情及び交渉でようやく増 員が決定され、31年7月より中浦健雄が21号より上の集配を受持つことになった。中浦君は 新採用のために自転車・スキーは貸与されないので、私物を使用しなければならない。それから 6年余り苦労を共にしてきたが、事情あって退職し、後任に岡村明雄君が引き継ぎ、現在に至っ ている。
 昭和40年11月1日をもって、西竹簡易郵便局が町田文平氏を局長として開局され、部落の 人々も一安心というところである。


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