この記事は「電撃NINTENDO64(現・電撃ニンテンドーDS)」1997年7月号に掲載されたものです。


OGA PRESENTS
意味などないのだ
There-is-no-reason-to-be!
渡辺浩弐の 死と現実と狂気

小我恋次郎の体当たり業界レポート!
僕はいつのまにか35歳になり、僕という「ゲーム」のおよそ半分をやり終えた。 そしてその半分にはTVゲームという快楽マシンが含まれていたことになる。果たしてそれは僕に何を与えてくれたのだろうか。 この連載はインタビューであってインタビューでない。これは僕が気がつかないうちにゲームから享受(きょうじゅ)したもの、 あるいはゲームに奪い取られたものが何であるかを知るために、ゲームにかかわる人々をとおして行なう「意味を探すクエスト」である。


DEATH

 渡辺浩弐と出会って10年がたった。考えてみると、そもそもこの業界に僕を引っぱりこんだのも彼で、 インドマンという「史上最悪のいんちきキャラクター」(詳しくは次頁「発端」を参照)を僕に押しつけ恥かしめたのも彼で、 ついでに日本武道館のステージで泣きながらいやがる僕にチ●ポを出すように強要したのも彼である。 その渡辺浩弐が初の長編小説「アンドロメディア」を書き上げたということで、久しぶりに会った。 同世代である僕らは、年齢的にもちょうどディスク1からディスク2へのかけかえの時期を迎えていた。
 「うん。やっぱり折り返し地点という感じはしてますね。これからの人生は好きな事しかやっていかない。 自分の生きたいように生きる…ま、恋ちゃんなんかはずいぶん前から生きたいように生きてると思うんだけど(笑)。 いまね、12時間寝て36時間起きてる。自分はそのペースがいいってことがだんだんわかってきた。 実は人それぞれ生活リズムが違うんですよ。24時間ペースで生きてくということが、必ずしも自分の体に合ってるとは限らない。 それなのに社会のシステムに強引に自分を合わせている…っていうことが、だんだん年をとってわかってきてね。 ただ『本当は自分が何をしたいのか何を欲しているのか』を正確に認識するのはそうとう大変だった。 いい女とやりたいわけでもない、お金が欲しいわけでも、うまいものを食べたいわけでもない。 例えばみんな『テレビで騒がれてるようないい女とやりてぇ!』って思っちゃうんだけど、実はそうじゃなくて。 ブスでも自分がよければそれでいいという。そういうのがだんだんと見えてくる」
 わぁ、あいかわらずたとえ話が下品である。ワタナベはブスとやりたいそうなので、 全国のブッサーのみなさん、協力してあげて…って、そういうことじゃないのね。
 「最近ね。『生たまごっち』っていうの、はじめたんですよ」
 話のオチが見えるぞ、こら!
 「あ、バレた? そう、生タマゴを自分のお腹で育てるんですよ(笑)。有精卵を。 この前までたまごっちをやってて、その面倒くささが楽しいことはわかってた。 だったら本物のタマゴを自分で温めて育てたら楽しいだろうなと思ってね。 で、やってみると、たまごっちの面倒みるより楽なんですよ。しかも、油断すると割れちゃうっていうスリルも味わえる。 これ、けっこうはやるんじゃないかと思ってます。やってみると落ち着いた人間になりますよ。 ケンカしても、俺は殴ってもいいけど、こいつだけは助けてくれ…みたいなね(笑)」
 生タマゴ業界(あるのか?)のみなさんには朗報である。
 「たまごっちって、10年前に出てきてもおかしくなかった。ハイテクのおかげで出てきたというより、 受け手のイデオロギーが変わった、受け手のほうが進化したころでウケたんだと思います。 コンピュータに生き物を感じる…若い人が自然にそういう考えを受け入れられるようになった。 じゃあ生き物ってなんだろう。たまごっちはビジュアルがきれいなわけでもないし、音もカワイイわけじゃない。 なんかショボイものじゃないですか。だけどね、やってると『死ぬ』でしょ。その死の設定がいいかげんなんですよ。 すごい大事にしててもイキナリ死んじゃうし、放っておいてもけっこう生きてる。 死がいつくるかが、ちゃんとセットされてない。ここが生き物っぽい。 『ブレードランナー』という映画、あれ、アンドロイドが『死にたくない』って騒ぐ映画なんだけど、 最後のシーンでレイチェルというアンドロイドが人間になってしまう瞬間があって、それは、死がいつくるかわからない、 設定されている死の瞬間が、明日なのか、10年後なのかわからなくなったときに、人間と変わらなくなる。 予測不能の死、それが生命なんです。そしてそれがたまごっちの中にはある。だからあれ『死の匂いがするツール』なんです。 だからこそ売れた。たまごっちで遊ぶ女子高生は、セックスも食べる快楽も踊る快楽も知ってた。 ただ、死の快楽については唯一ピュアだった。つまり衝撃的であったわけです」
 新約聖書にこんな言葉がある。「一粒の麦、地に落ちて死なずれば唯一つにて在らん。もし死なば、多くの果(み)を結ぶべし」。 死が生命を生む、ということだ。しかし、たまごっちの死は「無」である。 我々が感じている死の恐怖とは、まさにこれである、実はもっともリアルな死なのかもしれない。

REALITY

 僕がよく考えるのは、ゲームは結局なにを与えてくれたのだろうか、ということだ。 そりゃあ『ぷよぷよ』で10連鎖が組めれば気持ちいい。『パラッパ』でフリープレイに突入すれば楽しい。 だけどそれがなんだ? 電源切っちまえばそれでおしまいじゃないか。もっとなんかないのかよ。 おい、なんかもっと心を揺さぶってくれよ! それともそんなことを期待するのは意味がないのか。え、どうなんだよ!
 「うん。ゲームが与えてくれたもの…ね。これまでは単に楽しいものが増えたって以外にそんななかったんだけど。 いま、なんかね、ボディブローのように効きはじめてる気がするんです。ゲーム感覚、あるいはデジタルツール、 インタラクティブメディア、ネットワークを含むものが他のメディアを侵食してる、みたいな。 例えば、村上春樹さんの『アンダーグラウンド』なんて、実はものすごくハイパーテキスト的でね。 あれは彼がインターネットに接続して、マックをつかいこなしたからできた構成なのかなと。 『現実』って非常に多面的、立体的なもので、いまこうして話していても人それぞれ受け取り方が違うし、見え方も違う。 従来のメディアはひとつのカメラから見たひとつのアングルで『事実はこうなんだよ』っていうしかなかった。 でもゲームの与えてくれた3D環境、リアルタイム性、いろんなアングルで切り替えて見られる特性、 あるいはネットワーク上に、ひとつの事件について様々な意見が飛びこんでくること、そんなことが『事実』のとらえかた自体を変えてきた。 作家が現場に行って取材して事実をきちんと書く…ってことがはたして最良の方法なのか。 むしろ、事件現場にたまたま居合わせた50人の人から話を聞いて、その人たちが見た『現実』だけを積み重ねていくことによって 『現実の立体化』をするのがいいのか。そういう疑問こそゲームによって『与えられたもの』かもしれない」
 ファミコンのマリオは平面的で横顔しか見れなかった。だが64のマリオはプレイヤーがパッドをいじれば360度いろんな方向から 「マリオという事実」を見れる。見る人によってその姿は微妙に違ってくる。
 「タランティーノの『パルプフィクション』もそうです。時系列が前後しながら、事実を見る人間によってどんどんその事実が変わってくる。 ちょっと古いけど『ツイン・ピークス』もそうだし、実は天才・黒澤明も『羅生門』でやってたりするんだけどね。 これはゲームを含めたデジタル感覚が、文学や映画を浸食しつつあるということです。 で、そういうものをポンと提示されてもみんなわかる、理解するっていうのは、やっぱりゲームの影響かなって思います」
 渡辺浩弐は「事実の立体化」はいいことだと言う。しかし僕は漠(ばく)とした不安を感じる。様々な方向から見たマリオという事実。 100人の人間には100人のマリオがいる。事実が積み重なり、マリオは巨大な立体彫刻となって僕に襲いかかってくる。 そこにはあのかわいいマリオ(実はあんまりカワイイとは思ってないけど)の姿はもはや見えない。どこかゆがんだ生き物に見えてくる。 おいおい、本物のマリオはどこなんだよ! 渡辺浩弐はこう答える。
 「うん、自分の中の事実がわからないと怖いことになるのはわかってる。 『アンダーグラウンド』の最終章で村上春樹が言っていてとても面白かったんだけど、 『エリートほど自分の物語をもっていない。だからアサハラが提示したジャンクな物語に飛びつき、自我の鍵ごとあずけてしまった』っていうね。 じゃあ自分の物語をどう作るかっていうと、これが難しい。特に我々の世代ってそういう訓練をほとんどしてないから。 情報を集めて、それを組み合わせて提示するっていうのはできるんだけど、自分だけのオリジナルの物語は作れない。 だから我々と同世代のゲームクリエイターって、いろんな場所からおいしいものをつまんでくるのは非常にうまい。 いろんなところからパクってきて、適当に組み合わせて『これが俺の物語だ!』って。 しかもゲームジャーナリズムの中でもそれが容認され、注目されたりする。これは非常に残念なことです。 で、そういう状況に陥りかけてるなかでね、一般の人たちが自我を保つための手法として、 ハイパーコンテキストみたいなものがありえてもいいんじゃないか。 だから恋ちゃんのいう、情報がどんどん増えていくことの恐怖は確かにあるけど、もっともっとチャンネルを増やして、 それを自分自身でザッピングする…その中で自分の価値観をみつけていくっていうのが大事かなって。 いずれにしても、いまの時代『じゃあお前の物語はなんなんだ!』という問いを、常に突きつけられる。ハードな時代だと思います」
 僕の物語は僕が作るしかない。誰も作ってくれない。 僕自身も含めて、数多くの「途方にくれた人々」が、今日もハードで先の見えないゲームをやっている。

MADNESS

 渡辺浩弐が書いた初の長編小説「アンドロメディア」は、近い将来(それはある意味永遠に来ない明日でもある)に、 「テクノロジーが生み出すであろう恐怖」を基調に描かれている。実に楽しく恐ろしいエンターテイメント、というのが僕の感想だ。
 「『アンドロメディア』はシリーズとしてしっかりやっていきたいと思っています。 これは、バーチャルアイドルをテーマにしたもので、新しい時代の生き方と死に方、キカイとのつき合い方、 新しい時代の恋愛とかセックスの形、そういうものを描いていこうとした作品だし、今後もそれは同じです。 で、今回書きながらいろいろ考えたんですよ。例えば、自分と同じ存在をバーチャル空間に作れるとか、 あるいは自分と同じ現実の存在をクローン人間として作れる、そんな時代に自分のアイデンティティをどう保つべきなのか。 バーチャルなものに恋愛をしてしまった場合、その行く先はどこに集約されるのか。 人間だったら結婚して子供を生めばいいけど…そういうのが、けっこう切迫した問題としてある。 だから「デジタル」という言葉を、技術用語ではなく哲学としてとらえていろんな作品を作っていきたい。 で、そのときのキャラクターとしてバーチャルアイドル「AI(アイ)」というキャラクターを今後使っていきたいと思ってます」
 アイドル、スターのビジョンが僕の頭の中で立体化されていく。安室奈美恵、SPEED、水野あおい、藤崎詩織… 現実とバーチャルがリミックスされて僕の「AI」になる。  「アイドルって面白い。古くて新しいメディアというのかな。ものすごくキッチュでプラスチックでありながら、温かみがある。 新しいのにノスタルジック。かわいいんだけど、どう考えてもその存在は○チガイじみてる。あ、売れてるアイドルって気が狂うよね。 自分がどんどんコピーされて街じゅうにあふれかえる。自分の言ってないことが自分の言葉として氾濫(はんらん)する。 その精神状態ってどうなんだろうって、すごく興味がある」
 いや。ヤバイのはアイドルだけじゃない。僕らもだ。
 「そう。視点が増えて、みんながいろんな意見を言う。これが正しいなんてことは誰も教えてくれない。 いろんな視点をザッピングしていくしかないこの時代に、正気を保つことってすごく難しい。 そしてどっちが○チガイなのかさえ、わからなくなってくる」
 こうなると、もはや正気を保つこと事態に意味がなくなってくる。本当にヤバイぜ、これは。ねぇ、読者のみなさん。
 「正気とはなにか、よりも『自分なりに狂っていく』というのがひとつの『生き方』なのかもしれません。 例えば『バイオハザード』にしても『パラッパラッパー』にしても、いいソフトの背後には、必ずそれを作ったマッドな人がいる。 でもね。本当に、実質的にそれを作ったマッドなクリエイターというのがなかなかオモテに出にくい。 クリエイターと称して表舞台に出てくる人にかぎって、みんな若くてカッコはすごくても、実は大人で計算づくなんです。 でも、そういう人には○チガイじみたオリジナルコンテンツは作れない。 昔、フランス映画界にヌーベルバーグという新しい波が起こったときに、その周辺の雑誌は、きちんとその○チガイを取り上げた。 『ゲームが社会に影響を与えうるか?』という問題はね、○チガイを引っ張りだしてきて、そいつがナニを言ってるのか翻訳して、 人に伝える…という当時のフランスのジャーナリズムがやったことを、ゲーム雑誌ジャーナリズムができるだろうか、 ということにかかっていると思います」
 ゲームを生み出す狂気。僕には残念ながら、そんな素敵な狂気はないように思える。 しかし、ある種のゲームをプレイしていて、なんとなく肌でその狂気を感じることはある。 しかしその本質は(もちろん肌でしか感じていないが)、深い深い暗やみの先にあり、とうてい翻訳不可能なほど遠くにあるように思える。 確かにそれは僕にとってとても興味深いし、とても魅力的ではあるが、同時にとても恐ろしい。
 僕は「アンドロメディア」で描かれている恐怖を思い出した。 それはデジタルなマシンと生身の人間が関わるときに生まれる「きしみ」も、ギシギシという音だった。 この連載はしばらくはその音をたどっていくことになりそうだ。



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